終戦の放送は奉天(瀋陽)北飛行場できいた。当時操縦学生で未だ半人前と
いう理由から「焦土再建の戦士たれ」と帰還命令を受け、列車で奉天を後にし
たのが八月十九日十時で以下はその日の午後の出来ごとである。
これより先、終戦の聖旨伝達の為関東軍及び朝鮮軍に御差遣の竹田宮殿下は
十七日から新京、京城を廻って十九日朝内地に向われた。この三日間宮機に雁
行して護衛に任じた鎌田大尉指揮の四機の戦闘機も任務を終え奉天北飛行場へ
の帰途についた。運命の悪戯というべきか、丁度この頃ソ連空軍は新京、奉天
をはじめ満州の主要都市近郊の飛行場に進駐して来た。鎌田編隊の隼四機はま
さにこの混乱の極にある基地に飛び込んで来たのである。
編隊は悠々と美事な雁行形を保持しつゝ滑走路に沿って超低空でひと先づ通
過した。敵も見方も一様に足を止め手を休めて空を仰いだ。編隊は大きく反転
すると今一度反対方向から頭上を通過した。「どうする心算(つもり)だろう」
と誰もが思った。再び大きく反転して来た四機は又々飛行場に向って超低空で
進入して来た。突然編隊長機の機首がグイ、グイと持ち上がったと見る間に飛
行場の中央で四機は一糸乱れぬ垂直上昇を始めたのである。「あっ!どうする
んだ。」上昇の力が尽きるとそのまゝ右側の二機が右に左側の僚機は左へと正
確な上昇反転を始め、次の瞬間隼は真っ逆様に唸りを生じて地面に突込んで来
た。「あ、あ、あ、…!」誰一人として次の瞬間を見ていることが出来なかっ
た。目を閉じ耳を覆い思わず息をつめると同時に天地を劈く大爆音をたてゝ四
機は等間隔をたもったまゝ猛爆煙を上げた。「やった!」日本人の胸を過った
のはこの思いであった。瞑目して唯々四人のパイロットの冥福を祈るのみであっ
た。噂に聞いていた「侍の腹切り」を目前にしたソ連兵は悉く肝を潰し、その
後の交渉は紳士的な態度に一変したという。(第二航空軍後藤参謀の著述要約)
鎌田正邦大尉(大分県出身陸士55期)の四人は先輩であり操縦教官である。齢僅かに二十歳から二十三歳。終戦記念 日を迎へる度に私にとっては己の生きざまを反省させられる「忘れ得ぬ人達」 である。
西谷眞六中尉(青森県出身陸士57期)
福田滋中尉(岡山県出身陸士57期)
後藤宰久中尉(熊本県出身陸士57期)