厭な記憶
入江 伸明
 夏の西の空に巨大なキノコ状の雲が湧き上がっていた。それは今までに見た こともない異様な雲であった。少年の日に見たその光景は、今も脳裏にある。 佐賀県の有明湾ぞいの一寒村の疎開先で見たのは、まさに原爆の雲であった。 長崎に原爆が投下されたのは、今から五十年前の昭和二十年八月九日である。
 米軍機による北九州への空襲は昭和十九年六月十六日に始まっている。私が 九歳で国民学校(現在の小学校)の四年生の時である。初めての空襲のとき庭 に掘っていた防空壕に、家族で転げるように逃げ込んだ。その時の空襲警報の サイレンの音、敵機を探すサーチライトの交錯する幾条もの光線、帆柱山の山 頂の高射砲部隊が敵機を狙って撃ち出す轟音を思い出す。翌朝、庭のあちこち に砲弾の破片が散らばっていた。しかし、不思議に恐怖の記憶はない。
 この空襲がきっかけになったのか、私達は家族挙げて佐賀の方に疎開した (その頃父は体調を少しくずしていた)。疎開先の田舎にも、戦火は徐々に押 し寄せてきた。時々敵の艦載機が飛んで来て、田舎の細道を歩いている人に機 銃掃射を浴びせたりした。ある夜、私達は有明湾の対岸にある大牟田が一面火 の海と化して燃えている様を眺めつづけていた。大牟田も空襲でやられたのだ。
 この様に戦況は、日増しに悪く傾き始めていた。ある日、天皇陛下から直々 の重大放送があるとのことで、父を中心に私達の家族や近所の人達も集って、 ラジオに耳を傾けた。ラジオからの天皇陛下の玉音は、雑音がひどく聞き取り にくかった。皆が父に天皇の真意を求めた。日本が戦争に負けた事を、父は告 げた。
 私が記憶している父の言葉は、この時を最後に、あとは思い出せない。父は、 この日から十一日後に亡くなった。愛国者であった父は、日本の敗戦を知った 時から発熱し、佐賀市の病院に入院した。病院といっても終戦の混乱のなかで、 薬も氷もなく、言わば、戦場における戦病死に近かった。享年四十五歳であっ た。
 母は生前に、終戦前後の事は思い出すのも厭だとよく言っていた。それだけ に当時の詳しい事情を母にたずねる事は憚られた。五十年経った今頃になって、 なぜか父の無念さや母の哀しみが胸に迫ってくる。
入江 伸明
昭和9年12月3日生
北九州市出身・北九州市在住
〈好きな言葉〉「逆境順境に襟度を看る」(呂新吾)