日日是新
上野 正康
戦後間もない昭和二十二年五月、先輩の強い勧めで母校の基礎医学の研究室
に残った。当時臨床部門には復員した若い人達が残りつつあったが、基礎部門
に残る人は殆どいなかった。さらに戦中戦後の荒廃から研究設備も古いものが
多く、何か研究しようとしてもお手上げの状態であった。しかし、昭和二十六
年頃になると、日本の世情も落ちつきを取りもどし、それと同時に同種の各大
学からの研究業績の発表が始まったのである。私も研究室に籍をおいた以上、
スタッフが足りない、研究設備が劣っているからと言って座視するわけにはゆ
かなかった。私は真剣に考え始めた。まだ当分の間はスタッフの充実と充分な
研究施設など期待出来そうもなかったので、中央の同種大学の研究に太刀打ち
出来るにはどのような研究を始めたらいいのか。考えているうちにテーマは他
の研究者達があまり手を出さない地味でかつ困難な研究に絞られてきた。遂に
思い当った。それは先ず組織中の神経線維を特殊染色して光学顕微鏡下に鮮明
に浮き彫りにする手法の研究であった。
それから毎日が私の戦争であった。昔から組織中の神経線維を鮮明に染め出
す手法は難しい仕事の一つであった。教科書通りにやっても満足のゆくものが
なかなか得られなかった。その後、数年間寝ても覚めても、そのことのみを考
えながら研究室での染色手法の実験が繰り返された。
この頃であった。私の心の中に「日日是新」ということばが定着したのであっ
た。失敗の毎日が続くので、時には落ち込むこともあったが、前日の惨めな気
持ちを翌日まで持ち越すことはやめよう。そのためにも一日を全力投球でゆこ
う。そして明日の朝は新しい気持ちでまた実験に取りかかろうと自分の心に言
いきかせながら数年が過ぎていった。
ようやく、昭和三十二年に私と二人のスタッフは数年間の努力が報いられて、
ほぼ満足のいく実験結果が得られるようになり、この特殊染色手法を応用した
研究が順調に推抄し、学会にもたびたび発表し、研究論文を学術雑誌に発表す
るまでになった。さらに嬉しかったのは、私の研究室以外の多くの研究者達が
私の考案した手法を使って研究がなされていることであった。
私の研究生活は四十年続いたが、いつも座右の銘として「日日是新」の気持
ちを持ち続けてきた。
-
上野 正康
-
大正10年10月19日生
-
大分県宇佐市出身・北九州市在住
-
〈好きな言葉〉「和して同ぜず」(孔子)