炎の恐怖
上村 徹郎
昭和二十年八月八日、旧八幡市中心部が米軍焼夷弾攻撃を受けた白昼の空襲
は、当時小学四年生だった私にとって唯一の戦争体験でした。ちょうど近くの
八幡製鐵病院構内に近所の友人と蝉採りに行った折に遭遇し、火に追われ必死
の思いで逃げ回りました。
当日は快晴で昼前の焼夷弾落下数夥しく、火の回りも早く、病院内を逃げま
どう内に友達ともはぐれ、退避途中では警護団とおぼしき人から熱気避けに用
水桶の水を頭からぶっ掛けて貰ったりして何とか病院外の広場に逃れ、図らず
も私を探してくれていた父に嬉し涙で抱きつく事が出来ました。
昨年一月の「阪神淡路大震災」の二次災害大火で焼野原と化した地区状況が
映像紹介されましたが、八幡戦災もこれと同様建物家財等瞬時に焼失し、無い
無いづくしからの再出発は、被災したどなたにも大きな試練を与えたものと思
います。
父が経営する会社に入社当時、既に社名も現称号として紙加工主業の中での
印刷部門は、技術革新の真っただ中で、自動化・高速化が叫ばれ、事務用伝票
も手書きから電算機普及で連続帳票(フォーム印刷物)への転換期に入ってい
ました。それで到津本社工場西側二階部分に新鋭機三台とスリッターを加え四
台を並べた迄は順風満帆の感ありましたが、思わぬ落し穴が待ち受けていまし
た。
年間を通じて湿度の高い北九州地区では、関東等に較べ紙の伸びが出易い為
印刷室全体の空調が必要でした。今から三十年前の空調機といえば冷房は水冷
で暖房時は熱盤挿入切り替えが必要な普及初期でした。そこで調湿効果を高め
ようと印刷室の壁や天井全面にモルトプレーン(石油化成品)を張りつめ効果
を挙げましたが、翌年の四十二年秋、空調機熱盤修理不良もあって切り替え調
整中でのスイッチ発火が化成品壁に燃え拡がり、手持消火器による初期消火に
失敗して窓から黒煙が吹き出し、駆けつけた消防車による消火活動中は軌道敷
の電車をも一時止めるありさま。結局、工場二階部分を焼失して近隣の方々に
も迷惑をお掛け致しました。しかし階段が比較的大き目で二個所設置していた
為社員の避難では幸い怪我人を出さずに済みました。
産業界は一面競争社会ではありますが、この折の近隣フォーム同業他社の方々
には、一時的な外注も快く受託いただく等“人の情け”のあり難さが身に沁み
ると共に、忘れかけていた空襲の恐怖もよみがえって火熱の怖さを改めて知り
ました。遅まきながらも今は防災にも力点を置く経営を目指しております。
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上村 徹郎
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昭和11年3月20日生
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北九州市出身・北九州市在住
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〈好きな言葉〉「眞実一路」