機転
碓井 三子男
 関東大震災の復興事業で東京工廠を小倉へ移転するその時期、小倉陸軍造兵 廠の前身小倉兵器製造所に就職したのは昭和四年のことでした。兵器製造の職 場だけに他の官庁にみられない指揮系統や人事権でした。当時、課長が軍人の 中佐で掛長が文官の勅任官技師という人事でしたが、敬礼は中佐が先にして技 師が答礼していました。職場は厳格で随分と規則も厳しく、公務出張の宿賃や 食事も必ず領収書を持ち帰るよう指導されていました。移転工事費が当時の福 岡県庁の全体の予算に匹敵する程でしたから綱紀の乱れを慮ってのことと思い ます。その中で建築技術は九州の他官庁、民間のトップであったと今でも思う 程人材(先輩) に恵まれていました。先に申しました綱紀の乱れで思い出しま すと戦前戦時を通して憲兵隊の手入れが三、四回ありましたが、その後始末の 処理をその都度指名されて私が主任を務めました。堅い性格が見込まれたので しょう。
 それが戦時になると、若い技術将校がぞくぞく招集されて入って参り、軍紀 になじんでない奔放さで教育教官が目をむくような考え方の違いがございまし た。忘れもしません、昭和十九年になると、戦局も危ふくなり、造兵廠も爆撃 に遭い、第二製造所の大分県宇佐郡糸口村に疎開することになりました。この とき、通常一年半かかる工事を六ヶ月で完成するよう特命を受け、若い中尉二 人と六月、現地に派遣されました。私が計画を担当したので止むを得ませんが、 普通のやり方で工事をしては間に合いません。そんな折、堅い制度の中に育っ た私が若いのびのびした二人に刺激されて今迄の制度もあったものではありま せん。工事の基礎も鉄筋コンクリート造を木杭に替える等して進め、幸い私が 先年手配した波形鉄板や石油類(輸送用)が他に比べ豊富で本当に役立ちました。 その年、台風が北九州を襲い、国道も国鉄も交通が止って予定の資材も入って きません。中でも宇島の酸素は漁船を頼み深夜満潮時に駅館川を遡り国道の下 流で陸揚げして現地に運び入れることが出来ました。昼夜なく工事を進める中、 工事業者の食糧が足りません。本庁に電話上申、工廠長も動いて大分県から白 米の特配を受けるなどして随分無理な工事量も無事に果たして十二月末には小 倉の本廠に帰ることが出来ました。
 融通無碍と申しますが、固定観念にとらわれず、環境の変化には臨機応変に 対応することの大切を教えられた五十年前でした。 
碓井 三子男
明治40年10月25日生
福岡県吉井町出身・北九州市在住
〈好きな言葉〉「信じられる友」