復員
大塚 金藏
 終戦の年の九月十五日、私は徳島の海軍航空隊から復員業務の一端を終え、 漸くにして小倉駅に辿り着いた。ホームでは戦時中の国防婦人会の方々であろ う人たちがお茶の接待をしていた。てっきり私達復員軍人のためにこうまで、 と思ったが、これは甚しい思い違いで、小倉に収容されていた米軍捕虜が開放 され、長崎に送還のためのもてなしというのである。大きなリュックサックを 背負い降り立った私は、むけられる白い眼差しに追い立てられるように改札口 を通り抜けた。
 駅前は疎開のために映画館をはじめ多くの商店が取り壊され瓦礫の山であっ た。残されていた電柱には麗々しく「キャバレー○○開店 美女大多数求む」 というポスターが随所に張られていた。戦後の女性の職場がキャバレーなのか と複雑な思いを抱きながら停留所で電車を待っていたが、順番の列もなんのそ の、電車が着くや否や、我先に乗る者で押し合いへし合いで、重い荷物を持っ ている者は押し退けられる始末。道徳も地に落ちたものだ、とやむなく歩いて 帰ることとした。汗びっしょりで帰る道すがらのこと、予科練あがりと覚しき 若い集団が、復員服の上衣を肩に羽織り高足駄の音を響かせながら軍隊で覚え たであろう卑猥な歌を放歌高吟する有様を見たとき、先程の若い女性の募集ポ スターが頭をよぎり、将来の行く末をつくづくと考えさせられたものであった。
 二十二歳の多感な青年であった私は、家に帰るなり大声で「負けて帰ってき た!」と怒鳴ったという。留守番の妹はびっくりして直ちに連絡したらしく、 両親は急ぎ戻り、その日は家族ともども無事を祝福してくれた。それからは何 もすることもないままの日々に両親が私の心情を察してか、書籍等を疎開して いた大分の田舎に行かされ、二ヶ月ばかり晴釣雨読の毎日を過ごした。
 心の整理がついた十一月末、家に帰る早々恩師の助言と地元校長先生のご協 力により青年団の組織作りに取り組み、地元校区青年団を翌年一月に結成して その団長となる。各小学校区にも市から青年団の組織樹立を奨励され、これが 機縁となって市役所に入職することとなった。三月には小倉市連合青年団の設 立にこぎつけ、私は市職員在職のままその団長に推挙され、昭和二十六年辞任 するまで活躍の場を与えてくれたことは、私の人生の大いなる裨益となり、当 時の市長をはじめ上司の方々には感謝の思いで一杯である。 
大塚 金藏
大正12年6月25日生
北九州市出身・北九州市在住