うまかったヒトラーの演説
合馬 又彦
日中戦争が始まって間もなく、昭和十二年八月横浜を出航してハンブルグ大
学に留学したのですが、当時のドイツはまだ平和で、日本人もハンブルグには
四人という静けさでした。
当時はヨーロッパに行くにもアメリカに行くにも船旅で、ヨーロッパの主軸
通貨はイギリス・ポンド。渡欧するにも、ヨーロッパ内を旅行するにも英ポン
ドに両替して行きました。日本からの寄港地 上海(この時は第二次上海 事変の直前で香港に回港)、シンガポール、ペナン、コロンボ、スエズなど全
てイギリスの植民地だった時代です。途中スエズから陸路カイロへ行きピラミッ
ドやスフィンクスを見物しアレクサンドリアで再乗船、マルセイユに着く迄の
四十二日の船旅は愉快でした。特に靖国丸での三木清さん(昭和初期から同二
十年没までわが国屈指の哲学者) との交友は私にとって有意義でした。終日 三木さんに誘われてウィーンの自宅にフロイト(精神分析の創始者)
を訪ね ましたが、生憎入院中で面会謝絶で逢うことができませんでした。二年後フロ
イトは死亡して残念でした。
三木さんは三等船室に乗船していた久留米出身で川端康成の挿絵など描いた
画家高田力蔵君と隣り合わせだったので、高田君が紹介したものです。
ハンブルグ大学のウィットマーク教授の下で昭和十四年三月帰国する迄約一
年半内耳の研究をしたのですが、当時のドイツは第一次大戦と世界恐慌の痛手
から立ち直っておらずパンもバターも配給。パンには木屑が混っており、卵は
外人が二日に一個、ドイツ人が三日に一個。フォルクス・ワーゲンが出始めた
頃でした。それで大学の研究者や職員もナチズムより食糧難に関心が高く、教
授たちもヒトラーは賢いから戦争はしない、と思っているようでした。ただ、
若い医局員などはナチ特有の制服を着るものも少しはおり、ユダヤ系教授など
は米国へ渡り始めていました。
宣伝と演説好きのヒトラーの街頭演説を二回聞きましたが、身ぶり手ぶりの
ヒトラーの演説はさすがで、ミラノで聞いたムッソリーニ、ハイドパークで聞
いたチャーチルの演説など足下にも及びませんでした。
既に日独伊防共協定(昭和十一年十一月) が成立していたのですが、大学
関係者も一般市民も日本に対する知識も関心も薄く、また昭和十三年正月、日
独伊防共協定を記念して大島浩ドイツ大使がベルリンの日本大使館で開いた在
欧日本人新年宴会でも防共協定の話など一切ありません。イギリスを始め欧州
各地から集まった在欧日本人約四十人の普通の親睦会で、まだ静かな欧州のよ
き時代でした。
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合馬 又彦
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明治37年6月28日生
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大分県中津市出身・北九州市在住
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〈好きな言葉〉「愚禿」