母に導かれたこと
鍵山 秀三郎
 五十年前(昭和二十年) の八月、私にとっては生涯忘れることができない 事がありました。
 その頃私達の家族は東京で戦禍を受けて、岐阜県の山深い村に疎開しており ました。元々から無気力で怠け者であった私は、環境や生活の激しい変わりよ うについてゆけず、自分自身をコントロールできないで、ますます意気地の無 い人間に陥っていきました。
 その日も耐え難い暑さを避けて、家の中で寝転んで本を読んでおりました。 ふと何かの用事を思いついて、母を探しに行った私の目に飛び込んできたもの は、焼けつくような炎天下で、線路工夫が使うような大きなツルハシを振るっ て山の荒地を開墾している母の姿でした。
 厳しい太陽の炎熱にさらされている母を守るものは、熱暑を少しでも防ごう として背中に背負った小枝の僅かな木の葉だけでした。
 太陽も土も重いツルハシも、全てのものが母を苛んでいるように感じました。 私が今すぐにでも手伝わなければ、母は死んでしまうという恐怖の念に駆られ て、用事を忘れてその場から荒地の開墾を手伝い始めたのでした。
 私はその瞬間から一大転機を得て、それ迄の怠惰で意気地の無い少年から、 勤勉で何事にも真剣に取り組む一人の人間に変わったのでした。
 私の果たす役割がたとえ僅かなものであっても、一鍬私が振るえばその分だ け両親が楽になると思うと、つい鍬やツルハシを握る手に力が入り、少しでも 早く、一寸でも多くやりたいという意欲が次々と湧いて来ました。
 誰から指図された訳ではなく、勿論命令されたものでもありません。唯々両 親を少しでも楽にさせたい、喜ばしたい、喜ぶ顔が見たいと思って、日を追っ て夢中になっていきました。
 まだ十二歳の子供ながらも、命懸けで取り組んでいくと、農業を本業とする 人達よりも優れたものを収穫することすらできました。
 日本史上初めて体験した敗戦という大きな出来事が起きても、変わることの 無かった私の性格が家族を守りぬこうとする思いを込めた母の姿によって、一 瞬にして変わったのでした。
 裸一貫で上京し、三十余年の間に築いた財産を、一夜の爆撃によって失いな がら一言も愚痴を洩らさなかった両親から人間の使命の大切さを学び、忘れ得 ぬ事として人生を歩んで参りました。
鍵山 秀三郎
昭和8年8月18日生
東京都千代田区出身・横浜市在住
〈好きな言葉〉「力耕せば吾れを欺かず。不問収穫 只問耕耘」