恩師ともらった銀メダル
君原 健二
 初めてオリンピックに出場したのは、東京オリンピックで、オリンピックの 素晴らしさに感動し、選手としての喜びを胸一杯かみしめました。
 東京オリンピックの最後を飾る日本期待のマラソンレースは、エチオピアの アベベさんが世界最高記録で優勝。そして、円谷幸吉さんは、ゴールの手前百 五十メートルで、ヒートリィさんに追い抜かれたものの銅メダルを獲得、私は 八位に終りました。
 思わぬ成績に私の関係者は、大変落胆されました。その時の記録は、自己最 高記録に対して三分三十秒も及ばなかったのですから。これに対し、円谷さん は、自己記録を一分上回る自己最高記録を作ったのです。厳しい結果に私は 「自分の持っている力。 それを発揮しきらないのも自分の力である」と割り 切りました。
 なぜ自分の力を出しきれなかったのか  私はオリンピック選手に選ばれて から「日本代表選手として良い成績を出さなければならない」という大きな責 任を感じました。また、多くの方々から「頑張って下さい」「お願いしますよ」 といった様々なプレッシャーもありました。当時二十三歳の私には、プレッシャー を受け止める心が十分備わっていなかったのです。
 オリンピック選手という大きな栄光をいだいているのに、それが見えず、責 任感やプレッシャーばかりが見え、それから逃げる行動をとってしまったので す。
 オリンピックが終って一年間は、ほとんど試合に参加しませんでした。また、 恩師の高橋進先生に仲人になっていただき結婚もしました。
 そうして、東京オリンピックのほとぼりが冷め、新婚生活も落ち着いた頃、 恩師から「青春時代にしかできないことは、青春時代にやっておかなくてはい けない。肉体の限界は、老いてから極めることはできない。今までやってきた 走力の限界は、今しかできない」という燃えるような情熱の籠った説得が続き ました。
 そして、再び私は競技者生活へ戻って行きました。
 恩師の説得がなければ、メキシコオリンピックの銀メダルも頂くことはなかっ たわけで、メキシコの銀もその後の競技も恩師の伴走で手にしたと思っていま す。 
君原 健二
昭和16年3月20日生
北九州市出身・北九州市在住
〈好きな言葉〉「努力は、人間に与えられた最大の力です」