自由の悟り体験
工藤 憲男
 五十年前の敗戦の時、「精神の国」の日本が「物質の国」の米国に負けたこ とが衝撃だった。日本は精神の国だから物質主義の米国に負けるはずがないと、 つねづね教わって育っていたからだ。旧制高校の理科系の二年生であったから、 外の世界が物の論理で組み立てられているが、心の世界は別だと考えていた。 心ときめく恋愛感情を、目から入る電磁波による大脳の興奮と思えなかったか らだ。
 敗戦という現実に直面すると、なまじ理科系の素養があったから、精神が物 質より優位であるという考えが間違っていることを認めざるを得ない。さりと て物質が精神より優位であることは認めたくなかった。悲しいほどに愛してい る恋人を思う心が、電磁波の動きに還元されてしまうことに耐えられなかった からだ。
 わたしの学んだ旧制高校のスローガンは「自由」であった。東京の第一高等 学校が政権のおひざ元にふさわしく「自治」を標榜しているのに対して、京都 の第三高等学校は文化をよりどころにしていた。第二の人格が形成される思春 期を京都で過ごせば、自由に生きることを理想とするようになる。心まで物の 論理で動くとなれば、自由とは空疎な観念論になってしまう。だから、必死に なって人間の自由について考えようとした。
 あとで思えば、「唯物論と唯心論」「自由論と必然論」「認識論における心 身論」という哲学の三大難問に、二十歳前の若さで挑戦したのだ。文化系であ れば挑戦する勇気がなかっただろうが、素人の恐ろしさで無鉄砲にも哲学の革 命に挑んだのである。
 東西の本を読みあさり、四六時中考える毎日が続いた。おしまいには寝床に 入って目をつぶると、瞼の裏にいろんな言葉がキラキラと光る文字となって飛 び交うようになった。「気が違うのか。いや、そんなこと思うと、気違いにな るから考えるな」と自分に言い聞かせたりした。
 ある日、「どうして物が卑しいといえるのか」と考えた。物と心を同等に考 えるべきだと気付いた。「目が目を直接見ることができない」という事実にも 気がついた。すると、もつれにもつれた糸が一挙に解かれてしまった。釈尊の 「自由の意志に従って生きよ」という教えを悟り、道徳や知識から自由になっ た歓びで、まさに「手が舞い足が踊る」という思いを味わったのである。 
工藤 憲男
大正15年9月21日生
香川県白鳥町出身・北九州在住
〈好きな言葉〉「自由」