雑草の如く強く生きよ
古浦 誠一
 昭和二十年八月七日、中学三年生の私は母と二人で下関駅から彦島の田の首 まで、真夏の太陽の下黙ってひたすら歩いた。行先は「山第四五〇三工場」で ある。正式の名は東亜坩堝(るつぼ)株式会社といって金属を熔かす坩堝を作 る工場だが、軍事機密から当時はこの様に番号で呼ばれていた。私達下関商業 の生徒五十人の学徒動員先である。
 坩堝は黒鉛と粘土を混ぜて作るから一日働くと帰りには文字通り真っ黒にな る。そして夜は空襲になると、近くの小学校に駆け付けて警備につく。
 そういう生活を一年以上も続けているうちに到頭七月二日の空襲で我が家も 焼けてしまった。全く着の身着のまま、母と弟の三人で豊浦郡の内日村に避難 した。焼跡の片付けや緊急生活の工面などで、瞬く間に一ヶ月が過ぎた。一段 落すると、動員の任務遂行が頻りに気になる。我々、勤労学徒の働きが戦争の 勝敗に影響すると思うと矢も楯も堪らない。だけど内日の山奥から通勤はでき ない。ならば下宿を捜してそこから通勤しよう、と思い立ち、この日朝早くか ら母と二人で出てきたのである。
 工場に着いて監督の教官に会った。教官は急な戦局不安に痛く憔悴の様子で ある。
 「昨日、広島に未曾有の新型爆弾が落ちた。詳しい情報は判らぬが彦島も危 険である。下宿などしなくてよい。暫く内日で待っていなさい」
 始めて聞いた原爆の報らせに、気も漫ろの帰途であった。途中の雑木林に、 米軍が空中撒布した電波妨害の銀紙テープが「E無気味に光っていた。
 八月十五日、天皇陛下の玉音放送は内日村で聴いた。雑音でよく聴き取れな い。信じられぬ思いと、拠り所を失った空しさで思考は止まったままである。
 九月になって授業が再開された。その日、全校生徒が講堂に集まった時の話 の訓話が忘れられない。「我々は戦争に敗けた。日本という国は亡くなっても、 大和民族は永遠に、強く正しく生きねばならない。これから苦難のなか、如何 に踏み躙られようとも、君達は雑草の如く強く生きよ」
 話される校長の目に光るものがある。生徒も皆寂として声なく唯々頭を垂れ 涙をのんでいた。
 あれから五十年、今、日本は世界で有数の経済大国になった。バブルが弾け たとは言へ暖衣飽食の現在、敗戦の日のあの頃の思いを決して忘れてはならな いと思っている。 
古浦 誠一
昭和5年7月14日生
山口県下関市出身・福岡市在住
〈好きな言葉〉「まづ臨終のことを習うて、後に他事を習うべし」(日蓮)