五十年前の私
後藤 豊彦
 昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃を契機に太平洋戦争が勃発し、年を追い 戦いは熾烈を極めた。十八年、大学生の学徒出陣が始まり、秋には学徒・女子 挺身勤労令が施行され、中学二年生以上の学徒は男女を問わず、学舎から軍需 工場へと一斉に動員された。私のクラスも九州兵器鰍ヨ派遣され、真珠湾攻撃 で名を馳せた特殊潜航艇の魚雷発射管の製造に従事した。一方、十七年四月の 米軍機による東京初空襲を皮切りに日本各地の都市爆撃が続く中で、不幸にも 二十年六月十九日、福岡市はB29による猛爆撃を受け、街の殆どが焼土と化 した。
 しかし、神州不滅、必勝の信念に燃える私達は常に学徒動員の歌を口ずさみ 日夜勤務に精励した。
 
(一)  花もつぼみの若桜 
五尺の命ひっさげて 
国の大事に殉ずるは 
我等学徒の面目ぞ 
あゝ紅の血は燃ゆる
(二)  後につづけと兄の声 
今こそ筆を投げうちて 
勝利ゆるがぬ生産に 
勇み立ちたる強者ぞ 
あゝ紅の血は燃ゆる
 二十年八月十五日、炎天下の正午、軍事工場の一角で、天皇陛下の終戦の詔 勅を聞き、ただ茫然として我が家へ引き揚げた。そして悪夢の様な戦争は終っ た。当時私は十六歳の中学四年生であった。
 翌日から懐かしい学舎へ戻ったが、蛻の殻のはずの校舎は兵舎に変わり、軍 隊が駐屯していた。旬日を経ずして平常を取り戻し、久し振りに授業が再開さ れた。学生として学舎で机に向かい勉学できる喜びをひしひしと噛みしめたも のである。そこにはチョークや黒板の匂いもあり、グラウンドでのスポーツを 含め、水を得た魚の様に喜々として残り少ない学生生活をエンジョイした。
 一方、終戦後の世相は一変し、軍国主義への反省、天皇の人間宣言、極東軍 事裁判の開始、財閥の解体等、新聞、ラジオではあるが、敗戦日本の変化を刻々 と報じていた。米軍海兵隊の進駐により博多の街もその様相を一変し、あらた めて日本の敗戦の厳しさを実感したのもこの頃であった。
 あれから五十年。今日の日本の繁栄を見る時、私は多感な思春期を勤労動員 で過し、当時の苛酷な体験をアルバムに仕舞い込んでいるが、それでも私は、 生涯を通じ最も意義ある青春時代であったことを自負している。 
後藤 豊彦
昭和4年2月14日生
福岡市出身・福岡市在住
〈好きな言葉〉「限りなきものと知りつゝ限りなきものを求めて」