大正ロマン
下村 史
人生斜陽に立つと無性に昔を懐かしく想う。特に少年時代はたまらない。人
間のもつ回帰性の所以だろうか。私はロータリークラブではロータリーソング
のほかに季節にふさわしい「小学校唱歌」「童謡」を唄うときがある。直近の
例会でも当夜が仲秋の名月だったので「十五夜お月さん」を情緒たっぷりと唄っ
た。この歌は野口雨情作詩、本居長世作曲で大正九年、一九二〇年少年雑誌 『金の船』誌上で発表されたものである。もう七十五年前の歌が今日もなお伝
承されていることは驚く可きことであるが、大正生れの私はそれを当然と思う
のである。何となれば明治と大正の年代の差異を挙げるならば、明治は勇武、
いわば硬派であり、大正は文華、いわば軟派と謂えよう。戦争も世界第一次大
戦への参戦、関東大震災の大きな災害も受けたとはいえ、国力増強、経済安定
により文華指向は必然だった。児童文学のジャンルに於いても鈴木三重吉の 『赤い鳥』が大正七年に創刊されて、わらべ唄から童謡へと新局面が開かれた。
この運動に協力し支持したのは、北原白秋、野口雨情、西條八十等後世に名を
残す錚々たる人々であった。従ってこの人たちの童謡は子守唄であった。
小学校の音楽学習は更にドライブがかゝった。私は学芸会で当時のまだ珍し
かった母が新調してくれた洋服を着て「からす なぜ鳴くの」と、声一杯歌っ た。「からたちの花」も藤原義江風に歌って好評だった。藤原義江が私の町へ
来たとき現今のディナーショウのようなものが行われた。私はまだ五歳の幼児
であったが、父につれられて陪席した。歌い終わったのち彼は私のところに寄っ
てきて「可愛い坊ちゃん」と頭を撫でた。見上げた私の眼と眼が合った。大正
九年・一九二〇年、彼は当時まだ無名ではあったが、嘱目されてヨーロッパ留
学の途中であった。現在、下関市阿弥陀寺町に藤原義江記念館「紅葉館」があ
る。福岡と下関、まだ縁があるのかも知れない。
私の家の近くにいた女の子も歌が上手であった。初めて学芸会できいたのは
「人形」であった。「私の人形はよい人形 目はパッチリと色白で小さい口許
愛らしい
私の人形はよい人形」と唄った。私はその子がその人形そっくりと思った。ア
メリカから人形が日本に贈られてきたとき、また「青い目をしたお人形はアメ
リカ生まれのセルロイド」と少しませた声で歌った。それから間もなくジャガ
タラのスラバヤに転校していった。待っていた「じゃがたら文」は来なかった。
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下村 史
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大正4年2月9日生
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鹿児島県西之表市出身・福岡市在住
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〈好きな言葉〉「常坐春風」