心の原点、青春の日の結核療養
関原 敬次郎
 もう五十年余りも前になるだろうか。私は当時「国民病」といわれていた結 核に罹ってしまった。
 その頃、私は久留米市で医学を学んでいた。戦時下で、栄養不足をきたす程 の乏しい食糧事情の上にラグビーで鍛われる毎日ですっかり心と身体のバラン スを崩し、遂に三年間休学する羽目になったのである。当時は結核に罹れば、 凡そ九〇%から九五%は確実に死亡するといわれた時代である。
 何しろストレプトマイシン、パス、ヒドラといった結核治療剤もなかった時 代なので、治療法としてはただ「大気安静療法」のみであった。つまり新鮮な 空気を吸い、消費カロリーのロスを安静によってコントロールするというまこ とに気の遠くなるような原始療法である。
 それで、そんな「大気安静療法」などやってられるかと、全く逆療法に走る 者もあり、そうした無茶な生活で、春秋に富んだ優秀な人材が死亡していった ことを知るだけに、厳しい科学的なルールの下で、管理治療を受けることがで きた幸運を強く思わずにはいられない。
 「福岡市今津日赤療養所」がその管理病院で、現在、福岡ドームのある百道 浜から西へそう遠くない漁村に建てられ、壇一雄が晩年を過ごすことになる能 古島を眼前に望む静かな海浜だった。病院では「沈黙の日」という治療法もあ り、決められた日は病院内では一切しゃべることは許されず、医師も看護婦も、 私達患者も二十四時間沈黙の一日、用があれば筆談であった。
 戦争の厳しさは容赦なく病院にも及んだ。海軍病院として接収されたのであ る。私は熊本県松橋町にある豊福園という療養所に転院させられた。その頃に なると、私でさえ敗戦を予感せざるを得ない毎日だった。病院を兵舎と間違え るのか、グラマン機が操縦士の顔が見える程の超低空で襲ってくるのである。
 やがて戦争は終わった。あれから五十年。「福岡市今津日赤療養所」での闘 病生活は、私にあらゆる面で大きい影響を残しているようである。結核治療に 約十年間を要したが、いまの私にとって、懐かしい「心の原点」ともいえる青 春の日々であった。
関原 敬次郎
大正13年2月7日生
熊本県山鹿市出身・北九州市在住
〈好きな言葉〉「知的好奇心」