我が青春
中間 翼
 昭和二十六年四月、私が二十一歳頃の話です。
 医学部の合格通知を前にして途方に暮れて居ました。当時は終戦の混乱がな んとか収まったものの、まだ日本は貧しく、私達家族も貧しかった。私の名前 が翼、「よく」とついているように、父は満州で民間航空の操縦士でした。敗 戦の翌年全ての財産を捨て着のみ着のままで舞鶴に引き揚げてきたのが昭和二 十一年夏でした。幸いに鹿児島の母方の祖父母が健在で家、田畑もあったので、 両親がにわか百姓になり姉、妹、弟四人の大家族の食料は確保できましたが、 父の技術を生かす職もなく、翼を失った鳥のようになり、現金収入の道が閉ざ されてしまったのです。進学の気持ちが強かった私に、父は塩田で細々と収入 を得ながら学校に行くように言ってくれました。
 当時鹿児島市にあった旧制第七高等学校理科に入学できたのが昭和二十三年 春のことです。然し、GHQ(占領軍総司令部)の命で学制改革が始まり、旧 制高校は廃止となり、私達は一年終了で新制大学を受験し直し、昭和二十四年 夏、新制九州大学教養部理科一年生となって久留米分校で二年間過ごすことに なりました。この間奨学資金の貸与と、夏休みの土方仕事、教科書の訪問販売 のアルバイトでなんとか学業が続けられたのですが、弟、妹達が成長してくる と、父も私一人に学資を送れなくなりました。
 そういう環境のなかで医学部の試験に合格しましたが、久留米の教養部の寮 から福岡に居を移すにも先立つ金もなく、入学金も払えぬまま途方に暮れ、入 学金をなんとかしなければと思って広島県の山奥に材木運搬の労働にアルバイ トで出掛けて行ったのです。当時はこのようなアルバイトしかありませんでし た。入学式も過ぎ、授業も始まったのに将来の計画も立てず、山奥で労働者達 と夜の酒で憂さを晴らして居ました。
 その時に鹿児島から一緒で共に医学部に合格した親友が心配して久留米の開 業医に相談してくれ、子供達の家庭教師、医院の薬局の手伝い、カルテの整理 などをすれば食事と部屋を提供してもよいという夢のような話を持って来てく れたのです。
 こうして、久留米から福岡に通学するようになった四年間。朝早く弁当を作っ て学校に送り出して頂いた今は亡き医院の奥さん。薄汚い私を書生として受け 入れて頂いた義侠心のある先生。私の窮乏を救ってくれた親友。この人達があっ て今の私があるのだと忘れることができません。
中間 翼
昭和5年3月15日生
鹿児島市川内市出身・北九州市在住
〈好きな言葉〉「敬天愛人」