B29と空腹と
廣石 敏彦
終戦の年、私は七歳。小倉市立清水小学校一年生であった。父が当時、山田
部隊(現在の北九州市山田緑地)の副部隊長として広い庭のある官舎住まいで、
私は毎日そこから約一時間、南小倉駅からの線路伝いにほとんど素足で通学し
ていた。小学生一年の足で雨の日も風の日も片道約三キロは辛かった。
終戦も真近になった頃、上空には毎日B29爆撃機の編隊が悠々と銀翼を光
らせて飛び回る下を、いつ襲われるかも知れない恐怖を感じながら通学した。
空襲警報の連続で学校と家を行ったり来たりした、あの恐ろしさは今でも忘れ
られない。しかも学校に登校した時も一日中授業があることは希で、今でも女
の先生であった事だけは覚えているが、校舎、教師の様子は記憶にない。何十
年振りと言われた一昨年の夏、毎日猛暑が続いたあの青空が五十年前の七月か
ら終戦までの小倉の空と良く似ていた事を思い出した。
戦時中、毎週だったか、十日ごとだったか、食料の配給があった。部隊の部
下の兵隊さんが家まで届けてくれ、食べる物がなかっただけに子供ながらに楽
しみであった。しかしこの配給はほとんど同じ物が多く、ヒジキ、コーリャン
と粟。
ヒジキはまだしもコーリャンは焚いても米のようには膨れず、勿論、粘りも
なく、箸では到底食べられる代物ではなかった。匂いも多少あった。それでも
他に食べる物はなく配給で我慢せざるを得ず、今でも時々食卓に出てくるヒジ
キを見ると、つい配給のことが思い出され、なつかしさと同時に成長期の私に
とって食べることに苦労したあの頃が脳裡をかすめる。
戦後は郷里の門司・恒見に帰り、松ヶ江南小学校へ転校したが、グラウンド
の隅は芋畑であった。
我が家は代々農業で、沢山の田畑を小作人に耕作させていた。しかし、それ
でも米は手に入らず、父が終戦後芋、野菜、麦を作っていたものの、米は祖母
が若い頃買い集めた着物と物々交換して手に入れる姿を時々見たことがあった。
その様な食料事情が朝鮮戦争の勃発まで続いた。
今思えば、戦争と敗戦という社会背景とはいえ、人間として最低の生活を体
験出来たことは我が人生の少年期であっただけに、与えられた苦労は一生忘れ
られない。それだけに、今の満ち足りた生活が将来再び戦争に依って破壊され
る事のない様、切に望みたい。
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廣石 敏彦
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昭和13年4月20日生
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北九州市出身・北九州市在住
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〈好きな言葉〉「生涯現役」