師の決断
松信 要三
物心ついて五十年、人は還暦を迎える頃自分史の青春編がまとまる、と言え
まいか。家族とのめぐり逢いに始り、ドラマチックな人とのめぐり逢いが運命
を決定づけ、それが「喜怒哀楽」の個人史を築き、反省や満足の中「塞翁が馬」
が頷ける年頃となる。
私は中学時代柔道を習って茶帯までは貰った。柔道着を持たなかったことが
縁でラグビーで青春を完全燃焼することになった。一六三センチで鈍足のチビ
タンク。骨丈夫が唯一の取柄だった。強運に恵まれ明大に進学、現役十五年 (高校・大学・社会人)、OBコーチで二十五年。この間流した汗は約二十噸
を時々自慢する。全て諸先輩の汗の指導と同輩後輩の支援の賜であり感謝し続
けて今日がある。名大新人で対中央二軍戦に初出場。懸命なタックルが認めら
れて、一軍に抜擢され、夢舞台であった早明戦にも四回出場。全日本軍在籍七
年間(一九五九〜一九六五)桜のマークを胸にする名誉も掴んだ。戦後初カナ
ダ遠征や八幡の海外遠征(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)全国
社会人大会に六回優勝、国体に九回出場等その歴戦の中で、忘れられない血と
汗の話は山程あるが、全ての起点は師の決断にあったと思う。
圧巻だったのは一九五九年早明戦の時、私は四週前の対東大戦で膝の靭帯を
負傷、次の対法大戦に欠場、負けた。早明が一週間後に迫ったが、痛くて充分
走れず出場を断念しようと覚悟して先生を訪問したその時、目が会った瞬間 「要三ッ今度は痛くても出るんだぞ!!」と命令が下った。「ハイッ」と答え
てしまって覚悟が決った。監督三十五年目の北島忠治先生は、ファイテングス
ピリットを大切にされ、またキャプテンシーを重視された。故に負傷中ながら
主将に選ばれたのである。試合中、前半十五分でSO北島が脛骨折で退場し十四
人での戦いとなった。だが、メンバーの組み替えやFBのスクラム参加指示命令
等の采配が成功し、再逆転の末勝利を得た。この時の喜びは格別であり、オヤ
ジの笑顔も爽やかだった。師の決断で忘れられない事がもう一点。
私は高校三年の時、友人三人と共に謹慎処分の罰を受けた。部の強化の為新
入部員勧誘の時ビンタを食わした者がいて事件となった。「謹慎祝をするから
家に来い」、当校教師でラグビー部長故桑野司麿先生の伝令が届いた。「罰は
罰、神妙に受けよ。動機は純粋だから俺は許す。くよくよせず胸張っとけ!!」
消沈の我々に檄をとばしてくれた先生の笑顔が明治の親父とダブル。勇気ある
師の決断に最敬礼して一生青春の顔で生涯現役で走り続けたいと思っている。
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松信 要三(旧姓松岡)
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昭和12年1月28日生
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福岡県山田市出身・福岡市在住
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〈好きな言葉〉「鉄は熱いうちにうて」