きのこ雲
円日 成道
 一九四五年八月九日、私は学徒動員で長崎県川棚にあった海軍工廠で人間魚 雷を作っていた。高等学校一年生。夜は工員の寮でノミとシラミになやまされ、 仕事中は海軍の兵士から青竹でしごかれ、朝食と夕食のあとでは広い食堂で眠 りこけながらドイツ語や数学の講義をうけていた。
 その日の朝。工場で新聞、それも今日の半片一枚だけのものだったが、私た ちはソ連の参戦を知った。みな黙っていた。まだ十七歳の若者たちもそれが何 を意味するのか、ぼんやりと感じていた。死は他人ごとのように、そこにあっ た。
 十時半ごろ警戒警報のサイレンが鳴ったが、そのころはもう防空壕に逃げこ むことはゆるされていなかった。上半身まるはだかの私たちは工場の外に出る と真夏の青空を見あげた。キラキラひかるB29が二機、長崎のほうへきれい な飛行機雲を引きながら飛んでゆく。しばし敵機であることも忘れて、その機 影の美しさに見とれていた。
 仕事にもどって、どれくらいたったであろう。それは稲光のようだった。何 がおこったのか、わからないまま外へ出た。ド、ド、ドーと大地をゆるがすよ うな地ひびきがおこった。夢中で防空壕に頭から飛びこんだ。せまい壕の中、 みんなおりかさなって次に何がおこるか待った。なにごともおこらない。ぞろ ぞろと壕からはいだした。
 「あーあ、あれを見ろ!」
 だれかが南のほうを指さして叫んだ。大村湾をはさんで長崎の方向に、ピン ク色したきのこ雲が青空をつきさすようにそびえたっていた。
 あくる十日の朝、寮を出た私たちは隊列をくんで工場へむかっていた。途中、 大村線の川棚駅前を通る。息をのんだ。隊列はとまってしまった。貨車から出 てくる被爆者が長蛇の列をつくって、こちらにやってくるのだ。私たちは道路 のはしに身をよけた。人に背おわれている人、棒ぎれにすがって歩く人、戸板 にのせられて黒こげになっている母親、その胸にすがりついている火傷の赤ちゃ ん。
 あのときの私の聴覚は失われていたのだろうか。物音も人びとの泣きさけぶ 声も、私の耳には残っていない。ちょうど無声映画をみるように、私はただ茫 然とたたずんでいたことを覚えている。
 その日、工場の片隅で見た新聞には「長崎に新型爆弾、損害軽微 軍民とも に戦意盛ん」という文字がおどっていた。
円日 成道
昭和2年9月4日生
福岡県田主丸町出身・福岡市在住
〈好きな言葉〉「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまいもすべし」 (歎異抄)