暗い星空
水野 勲
 あの日のこと、あの日の夜のことは忘れようにも忘れられない。終戦の日、 昭和二十年(一九四五)八月十五日のことだ。毎年終戦記念日の日に、繰り返 し反芻しているから、記憶が薄れるどころか、むしろ増幅しつゞけているといっ てよい。
 あの日の正午の詔勅のラジオ放送を、私は八幡製鉄所の人事課長室でひとり 聞いた。この放送は所内全職場の隅々まで、スピーカーを通じて知らされた。 八幡の街中も、もちろん全国津々浦々まで報道された。聞き終えた人は、それ ぞれの感慨を胸に抱き今日に至っている。昨年は戦後五十年の節目の年という ことで、マスコミは例年になく大々的に、この日のことを採りあげた。あの日 のあの時の回想を、大勢の人が語っている。それには年齢や境遇や性別などの ちがいに加えて、各人の価値観も窺い知ることが出来て、私には興味深かった。
 あの夜、私はちょうど防護当直の当番で、この一年余の間、何回となく寝泊 まりをした本事務所の仮眠室に、この日も同僚の二、三人と詰めていた。昼に あの詔勅があったが、これで戦争が完全に終わった訳ではあるまい。事実、夜 のラジオは時どき「九州南方の洋上に敵機-」という放送がなされていた。し かし八幡製鉄所には、空襲警報はもとより警戒警報が出ることもなかった。
 この静謐はいったい何年ぶりのことなのか。私は夜も更けた本事務所の屋上 にある監視哨に立った。つい一週間前に大空襲に遭った八幡製鉄所のあちこち から灯がこぼれ、紅い炎もチラチラ見える。三分の一が焼夷弾に焼かれたとい うのに、街中のそこそこに灯火が瞬いている。
 戦争は終わったのだ。そのまぎれもない証拠が眼下にある。しかしこの後に やって来るものは何か。無条件降伏、地上軍による占領、責任者の処断、賠償 等々、戦敗国の国民としてどんな苛酷な運命が待ち受けているのか。私は恐怖 に震えた。
 何回かの八幡の空襲でも、私は怖いと思ったことはなかった。日中戦争で一 兵士として二年半中国大陸を転戦した時も、同じだった。待ち設けている時は 怖くない。何が起こるか分からないから怖いのだ。
 多くの人は、戦争が終わって安心したという。平和が戻って来る、安穏な生 活が蘇ったのだという。この夜、私には平和という言葉は全く浮かばない。よ く晴れた夜空の星くずを眺めながら、立ち竦んでいただけだった。 
水野 勲
大正3年8月10日生
北九州市出身・北九州市在住
〈好きな言葉〉「随処随縁」