敗戦の日に寄せる感慨
御手洗 博
 「四月とはこのうえなき残酷な月」とうたった西洋の詩人がいた。冬眠を貧 ることの出来る死の季節「冬」が望ましく、人々の意識を覚醒する春は残酷な 月と映ずるというこの詩人特有の逆説である。私にとって、このような月は八 月であった。敗戦が従来の価値体系に対する不信を突きつけ、否応なしに覚醒 を迫ったからである。
 あの八月十五日、わが家は主のいない盆祭りを迎えていた。父は戦地にいた。 我が家のラジオの前に、近所の人が集ってきた。正午、畏き声が何事かを伝え た。長老の解説で、それが日本の降伏であることが分かると、一斉にざわめき が起こり、そして沈黙が座敷を支配した。母は放心したように遠くを眺めてい た。
 私は完全に「マインドコントロール」されていた。なにしろ私の生まれたの は神の国であり、物心ついたころから、私は大御心を体する聖戦を賛美してい たのである。幼時より「ススメ ススメ ヘイタイススメ」を読まされ、長ず ると竹槍訓練に駆り出された。このような軍国少年にとって「玉音」の伝える 敗戦の報は、余りにも衝撃的であった。悲壮感にうち震えていた私の眼に、静 かに席を立って台所に向かう母の姿が映った。どことなく軽やかなその足取り が私には不快であった。その時母の胸中に去来したものを正しく理解したのは、 狂信から覚醒した、ずっと後のことである。
 父の復員も衝撃であった。風土病に冒され、やせ衰えて帰還した父の姿には、 もはや昔の面影はなかった。理不尽に苛立ち、夜半にうなされる様子は不気味 であった。父を苛む悪夢の正体は兵士としての体験だけではないとの思いが、 私を苦しめた。次々と明るみに出る皇軍の実像 ー現地民間人に対する虐待の 数々ー が、おぞましい妄想をかき立てたのである。父は実直な農夫であり、 平凡な家庭人であった。この父が、仮に異常心理による一時的暴走をしたとす れば、それは戦争という極限状況の結果だという以外に説明がつかない。だが、 一時的にしろ、この「聖戦」が何十万という恐ろしい人格破壊者を作ったこと は紛れもない事実なのだ。
 あの時から五十年。またぞろ「聖戦」肯定論が飛び交い、サリンをばらまく 集団が跋扈している。狂言とその独善的思想の恐ろしさを、私たちは片時も忘 れてはならない。
御手洗 博
昭和8年11月21日生
島根県津和野町出身・北九州市在住