戦死後も教え子を救う源三教官
皆川 節夫
源三教官とは私の恩師・陸軍中尉永瀬源三教官(陸士五十期生・昭和十三年
当時二十三歳)に私たち士官候補生が捧げた愛称です。教官は零下四十五度の
三ヶ月、北満で私たちの訓育を終り、その年十四年八月末、惜しくもノモンハ
ンの戦闘で戦死を遂げました。このとき以来今に至るまで、旭川師団の管内で
はその人柄と武勲を慕って人々は「軍神 永瀬大尉」と称えてやむことがあり
ません。
さて再び奇しくも教官の霊によって私は一瞬の危機を救いとられました。そ
れは教官の戦死から一年七ヶ月後の昭和十六年三月四日北支派遣の新設旭川部
隊(歩兵二二一聨隊)でのことです。当時私たち五名は初年兵教育を実施中で
した。
この日の早暁三時に私を頼りに苦心の百キロを踏破した四十名の初年兵がやっ
との思いで中隊兵舎に帰りついた直後のことです。いつもの様に内務班まわり
を始めたとたんに私は異様な光景−人の初年兵小菅三郎が暁闇の屋外に立って
幼児のように激しく泣きじゃっくていた−を発見したのです。瞬間に私は「あ
れほど初年兵教育に協力を誓ってくれた古年次兵め!堪えに堪えて帰りついた
初年兵をいじめるとは卑怯だ!」と五体のふるえが止まらず、なぐり込もうと
構えたその時「待て待て皆川候補生!」、なつかしい源三教官の秋田弁が天の
一角にひびきわたりました。わずかに冷静を取り戻し「小菅、古年次兵がいじ
めたのか」「ちがいます。うれしくて泣いているのです。教官殿、中に入って
見て下さい」、数語を交わした私は驚きました。何と古年次兵Aは小銃手入れ
に、Bは春雨に濡れた初年兵に軍服を着せ替えるなど、肉親をいたわる愛情そ
のままのなつかしさでした。みがきあげられたランプは煌々と荘厳に輝いてい
ました。そしてやがて古年次兵への感謝と懺悔の涙でその美しさもいつしか見
えなくなりました。
この出来ごとを転機として私の所属した通信中隊は北支でも完ぺきに任務を
達成し、苛酷な西部ニューギニア戦線から復員した今も、ひそかに一隅を照ら
すいたわりの絆を絶やすことがありません。
源三教官は私たちに訓へ続けてくれました。
「指揮官は常に精神の平衡を保って判断し決心せよ。そのため平素から心の
動揺をなくすんだ。『待て 待て』と自分に言いきかせるのだ。十回でも二十 回でも。時には百回でも二百回でも。わかったか候補生」と。
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皆川 節夫
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大正8年2月11日生
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福岡県大任町出身・北九州市在住
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〈好きな言葉〉「肝胆相照 意気衝天」(歩二七将校団の訓)