シベリアの俘虜
柳瀬 正貴
七十年間の人生で最も心にも肉体にも刻まれている思い出は、終戦後のシベ
リア抑留生活である。朝鮮興南港を出帆する時は、日本に復員するものと信じ
乗船した。ところが接岸したのはナホトカ港(当時は不凍漁港)である。その
日から三年、過酷なシベリア俘虜生活が始まった。
誰が名付けたか「地獄谷」に集結させられた俘虜千名、復員用の装具は着け
ているものゝ、今後のことは不安が募るばかりである。軍隊の時は指揮官が頼
りであったが、俘虜になってからは、将校も下士官も兵もない。頼りになるの
は通訳のみで、その通訳も明日のことさえ不詳である。凍った生木を焚き火に
して、零下数十度の露天で移動の指令を待つばかりである。生木の煙のため角
膜異常の患者が続発する。
翌日やっと無蓋貨車に乗せられ、北へ北へと向かうが、貨車が停車する度に
ソ連兵が入り込んで来る。「チキチキイエス」とボディタッチをする。「チキ
チキ」とは時計のことで、一人のソ連兵が両腕に数個の時計をはめている。そ
の他万年筆、キーホルダー等ソ連に無い物は貴重品として全て略奪するのであ
る。
二日目に到着したのがスプーチンカという伐採場である。そこはまだ前人未
踏の地で、大森林地帯であった。先ずカンバスのテントを張り、収容所用のキャ
ンプ作りからはじまった。煖房はトロッコを逆さにし、薪の炊き口をカッター
で切り、そこから無尽蔵にある松の薪を一日中燃やすのである。松は燃やすと
大量の煤が出るが、その煤がテント内に充満するため、兵士の顔も手も被服も
真黒になってしまう。最も悩ませたのが虱の大群である。虱の駆除は、はじめ
は一匹一匹手作業で、次は冷凍法、乾燥etcやってみるが、どの方法も無効で あった。最終的に成功したのが煮沸で、ドラム缶に被服を入れ煮沸することに
より虱騒動一件落着することが出来た。
伐採場での事故は勿論、入ソ連二年目位から栄養失調(デイストロフィー)
が多発し、多数の死亡者を出した。収容所では、死者は全て解剖をするが、栄
養失調で死亡した人の内臓、ことに心臓、腎臓、脾臓などが健康人の半分以下
に萎縮しているのに驚いた。シベリア抑留の実態が、あまり書物などにならな
いのは、あまりの悲惨さに筆にならないのではないだろうか。
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柳瀬 正貴
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大正11年10月23日生
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北九州市出身・北九州市在住
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〈好きな言葉〉「幸福とは健康であること」