廃虚に得難い実学
百合野 保文
私達大正末期生まれの年代は戦争と平和を劇的に体験しました。今思えば、
なかなか得難い体験だったと思います。
太平洋戦争(当時は大東亜戦争と言いました)も敗色が濃くなった昭和十九
年に大学予科に入った私は三ヶ月後の七月には学徒出陣で陸軍に入隊。満州 (現中国東北地方)の東方国境に近い蜜山炭鉱付近の飛行場つくりをしながら
幹部候補生の教育を受けました。その時は戦病死者の遺骨を内地に持って帰っ
ていたので終戦は日本で迎え命拾いしました。現地は湿地帯だったので、夏に
ソ連の戦車が来ることはないと言われていたのが、八月八日にはソ連の戦車に
蹂躪されたと、後で聞きました。
大学に帰って講義に出るようになったのは翌年の二十一年ころだったでしょ
うか。渋谷にあった大学は焼けて世田谷の今の馬事公苑前に移転し未だ建設中
でした。二十二年に元陸軍士官学校や海軍兵学校の学生達と一緒に試験を受け
て本科に入ったのですが、勉強はあまりせず、アルバイトに明け暮れる学生生
活でした。大学自体が食糧の配給がないと休みということもありました。とい
うのは、二十年の冷夏と枕崎台風による米の大凶作で戦後の食糧不足は危機的
状況になり、二十二年七月には東京都の主食配給の遅れが約二十六日になりま
した。食糧の配給がないと、都民は自分でヤミ食糧を探すほかなく、大学も休
みになったわけです。
しかし、それだけではありません。学生自身も生活に追われ、或は目標を失っ
て、勉強よりアルバイトに打ち込んでいました。私も予科に入学して三ヶ月後
には学徒出陣し死ぬ気でいたのですから敗戦のショック、生きている空さしか
ら容易に立ち直れず、講義より"余技"に力が入ったわけです。
なかでも面白かったのが学生アルバイトの斡旋業。拓大や東大の学生約十人
で銀座に事務所を設けて繁昌しました。当時は学校が休みになる前によく国鉄
運賃の値上げがありましたが、値上げ前に切符を買って二等車で帰郷したもの
です。また、北九州青果の前身福岡県青果鰍フ東京事務所の手伝いをして、こ
こで仕事を覚えました。卒業論文に青森のリンゴの問題を書いたのも余技が実
技になったようなもので、父の後を継いだのも座学より"実学"に励んだせいか
も知れません。今にして思えば、空腹ながら自分の思いで自分の生活を大胆に
追っかけることができていい時代だったと思っています。
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百合野 保文
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大正15年8月23日生
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北九州市出身・北九州市在住