北九州空襲
吉田 和彦
平成七年、戦後五十年という大きな節目を迎えたが、昭和の時代、苛酷な戦
争と苦しい生活を体験して厳しい戦後の混乱期を生き抜いた人々は、忘れられ
ない貴重な経験や出来事を後世に正しく伝える必要があると思う。
中学生時代から今日まで毎日、日記をつけているので忘れられない出来事や
想い出が日記を読むことによって、まるで昨日の出来事のようにはっきり甦っ
てくる。
日本の敗色が強くなってきた昭和二十年、日本全土が毎日B29の投下する
爆弾や焼夷弾の被害を受けるようになった。各家庭では防空壕を掘り、空襲警
報発令の都度、防空壕に避難していたが、自宅の座敷に飾っていた武将の鎧の
兜を父がヘルメット代わりに使用していたのが印象的だった。
B29が北九州上空に飛来したとき、迎撃した日本の戦闘機がB29に捨身
の体当り攻撃を行い、ボーイングが黒煙を吐きながら大きく旋回して墜落して
いくのが地上から良く見えた。高度を徐々に下げた巨体が視野に大きく迫り、
今にも頭上に落下してくるように感じられ、墜落して行く機体を緊張しながら
見守った当時の出来事が生々しく想い出される。
小倉中学校横の菜園場の大きな防空壕にB29が墜落した為、防空壕に避難
していた多くの人々が尊い犠牲となった。その日、敵機を撃墜するため高射砲
も活躍したが、その破片が樹齢二百年の庭の梅の木に深く突き刺さり家族の身
代わりになったのか、間もなく枯れてしまった。
六月二十九日夜半にB29の大規模な空襲があって関門地方に焼夷弾が投下
された。門司に大量の焼夷弾が落下している様子が小倉から良く見えたが、ま
るで夜空から美しい花火がバラバラと間断なく降っているような光景だった。
七月三十一日は午前十一時頃空襲警報が発令されたが、関門地方にグラマン
戦闘機が甲高い金属性の爆音を響かせながら急降下して機銃掃射をしている状
況が小倉からはっきり望見できた。
そして終戦間近の八月八日午前十時、約百二十機のB29が北九州地区に来
襲、約一時間八幡・若松・戸畑は火の雨のような焼夷弾攻撃を受けたが、小倉
は被害を免れた。
戦後五十年が経過した今でも忘れられない若き日の貴重な体験であるが、戦
争の悲惨さと忘れかけている平和の有難さをしみじみ感じる。
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吉田 和彦
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昭和3年12月10日生
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北九州市出身・北九州市在住
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〈好きな言葉〉「朝は希望に起き、昼は努力に生き、夜は感謝と反省に眠る」