真昼の閃光
吉田 敬一
昭和二十年八月九日、私は長崎県の大村湾に面した彼杵の浜辺に立っていま
した。太陽は殆ど真上にあり、さざ波が砂浜を静かに洗っていました。
当時、旧制高校二年生の我々は佐世保海軍工廠に動員され、私は横穴式作業
所で小型潜水艦に使う傘歯車を作っていました。ところが健康診断にひっかか
り、健民修練ということで、空気のいい環境の中で健康の回復に努めていたの
です。
その日は一艘の小船を借りて修練生数人が乗組み、沖に漕ぎ出し、私達はそ
れをぼんやりと岸から眺めていました。夏の空が海を染めるように晴れ上がっ
ていました。と、何かピカッと稲光のような光が空を走りました。見上げても
勿論雷雲など見当たりません。おかしいなと見回していると対岸の山のうえに
真っ白な雲がむくむくと湧き出すではありませんか。はじめは火山の爆発かと
想いました。漕ぎ出していた船には人影が見えなくなっています。(後で聞く
と、この人たちは熱かったので海に飛び込んだのだそうです)
そうこうする内に耳につんざく爆音が襲いました。何が何だか分からず、頭
を抱えて家のなかに駆け込みました。彼杵と長崎との距離は約三十五キロです
が、あれだけの音の大きさは今考えても驚きより恐怖でした。
広島に新型爆弾が使われたという情報はすでに流れていたと記憶しますが、
しばらくして外に出て見上げた雲の不気味さは、形といい、色といい、何かこ
の世のものとは思えませんでした。夜になると、体の焼けただれた無数の人た
ちが、大村の海軍病院に送り込まれているという噂が流れました。これが長崎
の原子爆弾だったのです。
戦後五十年を迎え、先の大戦について色々なことが語られ、特別な行事が行
われています。また、毎年終戦の日を中心に平和という文字が溢れますが、文
字にすることによって、かえって訴えが上滑りしてしまうような気がしてなり
ません。
筆舌に尽くせないといいますが、自らの体験を語れば語るほど、空虚な苛立
ちを感じる方も多いことと思います。あんな経験はもう誰にもして欲しくない
という思いを100%伝える難しさ。さらに言わして貰えば、マスコミがセン
セイショナルに扱えば扱うほどうすっぺらな印象も増してきます。
じっと静かに、戦争で経験した悲惨さや悲しみを反芻し、身近な人に伝えて
いきたいと私は思っています。
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吉田 敬一
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昭和2年2月17日生
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福岡県三橋町出身・北九州市在住
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〈好きな言葉〉「自然・悠然・偶然」