ひたすらに悔いなし
吉村 慶元
 日本国国体を・天地創造神の創りし国・天壌無窮万世一系の天皇・皇運 (天皇家の繁栄) に尽くし国家に殉ずることが自己完結−と摺り込まれ、大 東亜共栄圏樹立を大義とする戦争時に中学生となった。当時の年表をくると▽ 昭13 国家総動員令▽昭14 徴用令(店員さん徴用で人手不足の我家)▽昭15  皇紀二千六百年祝典(大政翼賛会で親父参列)▽昭18 勤労動員令(一年上 級まで軍需工場に)▽昭和19 学徒動員令 (きけわだつみの声)と続く。
 小学高学年は農繁期に勤労奉仕、小昼という田圃での間食の味覚はしっかり と記憶にある。戦いも負け込み本土空襲が始まり、体格がよく学校(現上野丘 高)に近いということで緊急警備員に任命された。任務は敵機来襲で崖の横穴 に奉安殿から御真影(天皇、皇后両陛下の写真)と勅語を移管し、監視哨(老 桧の梢に設置)で情況を把握、そして被災時の対処活動である。
 グラマンの急襲の他B29編隊の定期爆撃があり、日本の戦闘機(特攻戦術 で激減)や高射砲(炸裂弾未到達)の効果なく、僅か一機撃墜の折、後手に縛 られた乗組員捕虜に唾棄罵倒した想い出が苦い。そのうち被爆全焼の海軍工廠 病院が、幸い残った当校舎に移転した。間もなく動員された上級生の働く工場 が被爆して傷ついた先輩等を鬼畜アメリカ奴と呪い、興奮して手術室(教室) に担ぎ込んだ記憶が生々しい。
 勤労奉仕の大部分は河で篩った小石の山をトロッコで運び、被弾した滑走路 の穴埋修復作業で、責任を果たし頬張った支給麦飯ニギリの味も忘れられない。 また、急遽派遣された千歳村丘陵の頂上を均らしての陸軍飛行基地づくりでは、 召集で我々と一緒に働く老兵が自分の子供の如き若い下士官に「中学生より働 きが悪い」とひっぱたかれる情景。敵機来襲の報で予め用意の松枝で作業現場 のカムフラージュ。干割れした孟宗竹輪切の食器の貴重な味噌汁を漏らさじと 猫舌を火傷、押小麦飯での下痢続出、久方ぶりの休暇は丁度結実の桑畑に跳び 込み食った桑苺の甘味等々鮮明な想い出が湧いてくる。人間、苦しみ・悩み・ 悲しみから学ぶというが、当時皆同様の苦労を味わったためか、飢・寒・乏の 記憶はない。
 あれこれと当時の政略の欺瞞、無益を批判できるが、私にとって百姓、土方 仕事の習熟と重労働で培われた足腰のお陰で今日の健康と仕事の充実感があり、 これを宿命に素直、従順であった結果だとするなら五十年前の境遇に感謝の他 はない。 
吉村 慶元
昭和6年3月18日生
大分県出身・北九州市在住
〈好きな言葉〉「忘己利他(もうこりた)」