兄
石川 勝治
昭和七年生まれで七歳違いの兄と私は、大学が同窓、学部も一緒で、共通の
師にも恵まれ、漸くこの頃から共通の話題で語り合うようになりましたが、兄
は一貫して山登りに専念し、一年の大半を山で過ごし、一方、私はテニス一本
に打ち込んでおり、休日等に顔を合わせることは本当に希でした。また、社会
人になってからも、互いに転勤等ですれ違いが多く、たまに顔を合わすと「久
し振りだなぁ」という具合で、今考えますと縁の薄い兄弟だったという感じが
しています。
昭和六十年八月十二日、私は札幌に転勤しており、当日は本社より来られた
社長を囲み一杯やっていましたが、社長より「今日ジャンボが墜落し、多くの
犠牲者が出たらしいよ」との話が出ていました。家に帰ると直ぐに家内から 「父からの連絡で、兄が大阪へ出張で向う途中、墜落したらしい」と告げられ
ました。「まさか」と思うながらテレビをつけますと、次々に映し出される搭
乗者名簿の中に石川貞昭・五十二歳が出ており、一瞬自分の目を疑いました。
翌日、早速現地に飛び、兄の家族と合流しましたが、現地は大混乱で、遺族は
情報不足の中、むせ返る暑さの体育館でただじっと待つだけでした。私共は四
日目の深夜に呼び出しが掛かりました。
遺体安置所に入りますと、夥しい数の白い布で覆われた遺体の入った棺桶と
強烈なホルマリン消毒の匂いとで圧倒され、その状態は口では表現出来ません。
兄の棺の前で、確認の為の調書取りに三時間かかり、やっと兄との対面 ー 棺
の蓋を開けました。顔には若干の打撲の痕がありましたが、本当に安らかな寝
顔の如く、五体も満足な状態で綺麗に保存され、何故か悲しみより、ほっとし
た気持ちになりましたが、同時に直ぐに涙で目の前が霞み、何も見えなくなっ
たことを思い出します。
当時は、兄の家族と私の両親のショックは当然ながら大変なもので、とても
立ち直りは無理だろうと心配致しましたが、十年が経って、当時中一から高三
の三人の男の子は皆社会人になり、両親も父九十四歳、母八十三歳と今なお元
気。兄の分まで頑張って長生きしており、兄も今ではほっと安心して眠ってい
る事と思える様になりました。
毎年夏には、この事故が思い出されますが、このような悲惨な事故が再び起
こる事のないように念願し、兄の冥福を祈っております。
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石川 勝治
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昭和14年6月17日生
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東京都新宿区出身・福岡市在住
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〈好きな言葉〉「努力」「不言実行」