祖母のひと言
鶴丸 大輔
昭和二十年暮れ、北海道、帯広の山中より復員した。列車の窓から見る国土
は廃虚と化していた。広島を通過する時、今世紀いっぱい草木も生えないと聞
かされたが、山手は緑が美しい。それにひきかえ、広島の市街は瓦礫と化し、
僅かながらも裸木の間に緑の草木が萌え出ていた。救われた気持ちと、これか
ら帰ってゆく故郷のことが気にかかる。
「国敗れて山河あり 城春にして草木探し」の感慨が宗に湧いてくる。
生命ありて帰り来にけりふるさとの
駅ちかくしてあけぼのの色(昭和二十二年 詠進歌より)
駅から蓮根畠を通り、家が近づくと連絡もしていないのに祖母が家の前に立っ
ていた。
私は二歳で母を亡くし、祖母の手一つで育てられた。こみあげてくる帰り着
いた安堵感と祖母のよろこぶ姿に心はなごんだ。本当に帰って来た実感がわい
て来た。「よう帰ってきた。腹いっぱい飯を食べろ。」この祖母が改まって、
「お前の父親は死んだ。あとはお前がしっかり継いで会社をもり上げてくれ」。
この祖母の一言は、私の一生を決めた。
亡父と祖母から引き継いだ事業である。「絶対につぶしてはならない」。そう
志を立てた時私は二十七歳だった。
しかし、道は決して平坦ではなかった。戦時中に喪失してしまった船舶群の
再建に苦労しながら、戦後復興のエネルギー源であった石炭の輸送に超多忙の
日々が続いた。だが、やがてエネルギー革命の時代がやってくる。昭和三十年
代に入ると、これまで日本の産業を支えてきた石炭産業の斜陽化が始まった。
会社は大不況に直面、厳しい経営の場に立たされることになった。岸壁には石
炭専用船、機帆船、鋼船三十隻が活動の場を失って係留されたままの姿をさら
していた。
私は「つぶしてなるものか!」と、自ら立てた志を胸に、セメント、鋼材、
木材、機械、プラントと、脱石炭の道を求めて必死に頑張り続けた。
長期にわたったストライキ、あるいはエネルギー革命と、いろんな厳しい経
営に遭遇しながらいつの間にか五十年。片時も忘れることのない祖母の一言が
支えてくれた半世紀である。
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鶴丸 大輔
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大正7年9月11日生
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佐賀県久保田町出身・北九州市在住
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〈好きな言葉〉「行動も思考も反復こそが力である」