ある先輩
中尾 禮二
昭和三十五年頃の我が社(現ニチモウ、当時日本魚網船具(株))は、北洋
鮭鱒を含め日本の水産事業が最盛期であったこともあり、本業の漁具、資材の
供給に多忙を極め、その上、石油元売り会社に指定されていた事もあって、会
社の資金繰りも超多忙であった。
総務部会計課に所属していた私は、毎月後半になると毎日残業の連続で、土、
日の出勤はもとより、午前様になることも珍しくなかった。
丁度その日は月末の土曜日で、普段の月末より仕事の段取りがスムーズに進
んでいたらしく、先輩、同僚を皆帰ってしまい、広い事務所に残っているのは
私一人であった。夜七時頃、事務所をロックし、割り引き用の約束手形を持っ
て銀行に出掛け、十時頃帰社した。
当時、会社は旧丸ビルにあった。その時間になると皇居側の裏門から三菱地
所管理人の誰何をうけてビルに入るのが常であった。
事務所の前で驚いた。閉めて出たはずの鍵が開き、中に一ヶ所明かりがつい
ていて、誰かいるではないか。
「やあ、ちょっと忘れ物をしてね、管理人に頼んで入れてもらったところだ
よ。遅くまでご苦労さん」
さりげなく私に銀行との交渉結果を聞いて帰って行ったのは、当時の私から
見れば雲の上の人、藤岡取締役であった。
昭和四十三年、人事課長として私は労働組合との熾烈な交渉に明け暮れてい
た。
決裂した春闘交渉を何とか軌道に戻そうと、深夜までかかって三段交渉を終え、
部下の待ってくれている自席に戻った。
全く人気のない役員室から、ブラリと出て来た藤岡常務が、ニコニコしながら
我々にねぎらいの声をかけ、さりげなく交渉結果を確認して帰った後、ハッと
私は前回の事を思い出したのであった。
藤岡さんとはそういう人であった。今は亡き藤岡先輩の思い出が、熱く蘇る
このごろである。
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中尾 禮二
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昭和6年6月26日生
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鳥取県若桜町出身・東京都目黒区在住