少年時代と鎮西橋の明治屋
永木 睦文
 私が小学校に入学したのは第一次世界大戦が終わって間もない大正十年だっ た。老松公園は兵隊と軍馬であふれていた。私の家は公園東側の明治町にあり、 家の前は大分銀行門司支店の代々の支店長次長の社宅があって、当時は第二十 三銀行と呼ばれた。
 母が人力車で街に出るとき、「一緒に連れて行く」と声がかかるとうれしかっ た。母より先に人力車に乗り、玄関から出てくる母を待った。行く先が明治屋 のときは余計にうれしかった。母の膝に腰かけたり、足もとのゴムマットの上 にすわったりして走った。
 桟橋通りから鎮西橋までは本町通りだが、ロンドン通りとも呼ばれたことも あった。広い道の両側にはモダンな建物が並んでいた。明治屋は戦災で焼けた が、外観は今も変わらない。
 明治屋は店内においしそうな輸入食糧品がいっぱい並んだきれいな店だった。 店の奥の棚には色とりどりの瓶が天井近くまで並んでいた。小さな身体で見上 げると、今にも自分のほうに倒れてきそうな感じがした。
 今考えると、スコッチウイスキーやブランディだった。きれいなレッテルを 貼った缶詰などもたくさんあった。店の入口にはガラス張りのショーケースが あって、チョコレートやハム、ソーセージ、ベーコンなど、うまそうなものが 並んでいた。子供のころのことは、どうも食べ物の印象が強いようにある。
 私の父は門司港に入る外国船に燃料炭を売り込む石炭商でだった。ときどき 金髪や銀髪のきれいな外人の奥さんたちが家に来て、ホットケーキなどを焼い てくれたりした。母が明治屋に行くのは、この人たちを歓待する料理の材料を 買うためだったようである。
 数年前から始まった門司港の街のレトロ開発では、昭和初期までに建てられ た施設や建物は、市として大切に残したい方針であり、調べて見ると、明治時 代のものでは、青浜の部埼灯台の灯台長官舎の明治五年を筆頭に七軒。大正時 代のもの十一軒。昭和初期から十二年までが十軒。合計二十八軒が残っている。
 明治屋の建物は明治四十ニ年(一九〇九年)に建てられたもので、その外観 は今も当時のままの姿であり、ポート門司として世界に知られた往時のことが なつかしく偲ばれ、忘れられないこととして多感だった少年期を思い出す。
永木 睦文
大正4年3月2日生
北九州市出身・北九州市在住
〈好きな言葉〉「人の短を言わず、自分の長を言わず」(空海)