門信徒の熱い気持が
長谷川 裕一
昭和四十二年の本願寺鎮西別院(北九州市門司区)の本堂再建の折のことで
す。明治四十四年、建立に着工した同院は造営途中の昭和六年火事で仮本堂な
どを消失したままでした。その本堂再建に際して、当初は募財が集らず須弥壇
は元のままとなっていたのですが、途中で再建委員や門信徒の方達が「須弥壇
が古いままでは申し訳ない」と急遽須弥壇も新調することになり、京都と地元
の各二店と当社が選ばれ見積りの指示を受けました。しかし既に落慶法要が決
まっており時間は四ヶ月足らずです。だがやるからには日本一のものを。それ
も他業者の見積りのように落慶法要は古い須弥壇で、その三ヶ月後に須弥壇を
納入というのではなく、最初から落慶法要を新しい須弥壇で、と腹に決め走り
出しました。
まず京都にとび情報を集め、指定からもれた老舗の仏具屋さんに有名な飾り
金具師とご宮殿の原形を作る宮殿師を紹介してもらいました。当時私共は漆塗
りと金箔張りだけで彫金と宮殿は京都に依存していました。
紹介はもらったが一面識もない地方の無名の業者の仕事を引き受けてもらえ
るかどうか? 当時京都の職人は直接地方の仕事はしないのが仏具業界の不文律。
しかも親鸞七百年忌で仕事は手一杯。そこに常識外れの短い納期です。夜も昼
も頭が一杯で眠れない日々でした。しかしなんとしても引き受けてもらわねば
なりません。当時私は二十七歳でした。もし引き受けてもらえないなら割腹自
害も辞されぬ気持ちで訪ねた飾り金具師の久木盛雄さんは、まず私が若いのに
驚かれたようですが、「私は鎮西別院の崇敬区域−門司、小倉、筑豊、豊前の
門信徒の方達の熱い思いのお取次ぎとして参りました」という私の必死の思い
を聞き、即座に「お引き受けしましょう」と快諾されました。
後の話ですが、価格のことしか言わない業界で価格のことは言わず「日本一
の仏壇をという門信徒の熱い願い」に感動されたということでした。
お陰さまで、本堂仏壇納入のご使命をいただき直方から手伝いの職人を送り、
京都の職人との共同作業が始まりました。職人の意志の疎通には特に意を注ぎ
ながら無事落慶法要に間に合わせることができました。その後職人達は京都で
一年間お礼奉公をさせ、お陰で直方に京都の宮殿、彫金の技術が根づき、京都
西本願寺の昭和の大修復では須弥壇の修復をさせて頂きました。鎮西別院の仏
壇納入は当社の今日を築いた大事でした。
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長谷川 裕一
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昭和15年10月10日生
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福岡県直方市出身・福岡市在住
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〈好きな言葉〉「心は身体の真似をする」