祖父の臨終
山田 宜弘
 昭和四十年三月上旬、私の祖父喜平の臨終のことである。
 喜平は、若い頃から健康で小兵の男ではあったが、気力の強い性格であった。 還暦を過ぎた頃より、呉服屋の暖簾を息子義信に譲り、飄々として欲のない好々 爺として近所の人々からは、“仏の喜平”と言われる程いつも笑顔を絶やさず、 愚痴も零さず、毎日を感謝して生きてきたという感じの男であった。その祖父 喜平の臨終の様子である。
 二、三日前までは数十年楽しく嗜んできた湯呑一杯の晩酌の日々であった。 しかし、今日は常になく体の調子がおかしいと言って夕刻より床についた。家 人もどうも様子が日頃と違うと感じ、掛かりつけの医者に往診を頼んだ。診察 した結果、先生はこう語った。「これは病気ではありません。老衰です。注射 も薬も要りません」。そして「何かあったら知らせて下さい」と言って帰って いった。喜平は診察している先生に「先生、長い間有難うございました」と死 を予感したのか御礼の言葉を言い、私の妻の臨月の腹を観て「生まれる赤子は 男の子じゃ、大切に育てなさい」等と言ったり、周囲の家族、親族の連中に一 人ずつ御礼を言っていたが、「目が見えなくなった」と言い、そのうち「眠た くなった」と言って眠り始めた。周囲の一同は騒然として顔を見合わせていた が、今度は「耳が聞こえなくなった」と言ったので、皆は「お爺ちゃん」「お 父さん」と大声で喜平の魂を呼んだが、顔は平然としていて反応はなかった。 最後に私の長女(曾孫三歳)が「お爺ちゃーん」と大声で叫ぶと、聞こえたの か、ニコッとうすら笑顔を見せた。これがこの世の最後の反応となった。
 その後は眠るが如く、五分、十分、三十分と時間が経つにつれ、呼吸の回数 も少なくなり、約一時間後には息が絶えていた。側で見ていても本当に自然で 苦しみも無く、むしろ笑顔で今生を旅立った姿は側にいた親族に大きな感銘を 与えたのは言うまでもない。これこそ「大往生だ」、「こういう死に方をした いものだ」と一同は思ったことであったが、その後今日までその場の数人は既 に鬼籍に入ってはいるが、喜平のような死に方をした人はいない。
 貧農の次男として産まれた喜平の生涯は波乱の人生のようであったが、その ことに苦情一つ言うことなく、己の人生を真摯に生き抜いた結果がこのような 臨終になった気がする。臨終のその夜は、“喜平の死”に話の花が咲き、御祝 だと言って酒盛りをしたのが今でも忘れられない。喜平は享年八十六歳であっ た。その約一ヶ月後吾が家に長男が誕生した。 
山田 宜弘
昭和8年12月9日生
北九州市出身・北九州市在住
〈好きな言葉〉「中庸」