石油危機の教訓
大辻 清次郎
 社会福祉法人小倉新栄会は現在当会病院の画期的な増改策を計画している。 私は理事長として、その推進の重責を担っているが、計画を進めるに当たって 或忘れ難い思い出が胸中を去来している。
 私は昭和四十八年に初めて当会の理事に就任したが、忘れ難い思い出とはこ の年に起こった第一次石油危機のことである。理事就任早々、私は当時の石原 理事長から病院増築工事の監督を仰せつかったのである。
 昭和四十八年十月、世界を震駭させる大事変が発生した。第四次中東戦争の 勃発である。アラブの産油諸国は原油価格を約四倍に引き上げ、原油輸出国に 対する供給削減を行うというまことに荒っぽい戦略を展開した。石油輸入依存 度が極めて高く、高度成長過程にあって、その消費量も大きい我が国は大変な 経済混乱を被ることになったのである。若い人達には想像も出来ないだろうが、 トイレットペーパーが市中から消え去る程の異常な混乱が起こり、家庭生活ま でがパニックに陥る事態になった。諸物価は高騰、当然建設資材、職人の人件 費、輸送費等全てが著しく上昇、諸物資の需給は極めてバランスを欠くことに なった。所謂第一次石油ショックである。遂に官公庁は、これまで例を見ない スライド方式を導入せざるを得なくなった。
 その頃病院増築工事は既に契約を済ませ着工していたが、民間サイドでも官 公庁方式に習わざるを得ない状況になった。当事者である私は建築に関係して 五十年の間、かつて経験したことのない異常事態に遭遇、その対策にとまどい、 苦慮しながらも懸命の努力を傾け施工業者との交渉、円滑な工事の進行に当っ た。幸い、施工業者との交渉もうまくまとまり、工事は予定通りに進み、昭和 五十年六月小倉ホテルで盛大に竣功式を挙行し得たのであった。因みに施工業 者は高藤建設(株)であった。忘れ得ない我が生涯の一事である。
 ところで、あの石油危機は教訓として生かされているのだろうか。確かに省 エネ思想が生まれ、そのための設備投資もなされた。だが、平成五年冷夏の大 凶作時、国産米を求めて右往左往する人々の姿は二十年以上も昔パニックに陥 り、トイレットペーパーに血まなこになった人々の姿と同じではないのか。い ずれ石油資源は枯渇するだろう。代替エネルギーをどうするのか。予想も出来 ない危機が来た時どう対応するのか。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」では私達の 未来はないと考える。 
大辻 清次郎
明治42年6月1日生
東京都出身・北九州市在住